極彩色

語りたがり考察したがり、めんどくさいじゃにーずをたく

「可哀想なアイドル」はいない

「メンバー一同、誰1人として、"かわいそうなやつ"はいませんでした。」

 

これは、SexyZoneが1年半ぶりに5人としてリリースするシングル「カラフルEyes」のイベントが行われた後最初に更新された、SexyZoneの菊池風磨くんのブログの一文である。(正直、今回の記事で言いたいことはだいたいこの風磨くんのブログに書かれているので、ジャニーズweb会員の方は是非一度見て頂きたい)

 

私は「可哀想」という言葉が好きではない。

「可哀想」を辞書で引くとこうである。

同情の気持ちが起こるさま。ふびんに思えるさま。(goo辞書より)

 弱い立場にあるものに対して同情を寄せ,その不幸な状況から救ってやりたいと思うさま。同情をさそうさま。 (Weblio辞書より)

 解釈には色々な意見があると思うけれど、私自身は上記の引用のように「同情」「不憫」「自分より弱い立場の者に使う言葉」というニュアンスを強く感じてしまう。そして、それを言う側の人はどこか他人事な安全圏にいて(これは言い方によってニュアンスは変わるかもしれない。純粋に心配として使っている人がいたら申し訳ない)、言われる側の人について「ただ悲劇を被った被害者」「一方的な弱者」というレッテルを貼られているような気がしてしまうのだ。

 

だから私は「可哀想」という言葉が好きではない。特に、アイドルに「可哀想」という言葉がつけられるのが好きではないのだ。

 

私は、3人目の脱退が決まり現在グループの今後の活動が不透明な状態であるKAT-TUNについても、今回の新曲が決まるまで3:2の構図で活動してきたSexyZone・特にデビューしているにも関わらず長くJr.のような扱いを受けてきた松島聡くんとマリウス葉くんについても、デビューまでが長く現在も他グループに比べメディア露出が少なく「苦労人」と呼称されることのあるA.B.C-Zについても、一度たりとも「可哀想」だと思ったことはない。

確かに苦境には立たされてきた。ファンである私が想像もできないくらい辛く苦しい思いをしてきたことも多々あっただろう。

けれど彼らはいつだって全力で仕事に向き合い、ファンに向き合い、スキルを磨き、美しく気高くステージに立ってきた。素晴らしいパフォーマンスを見せつけてきた。今いる場所で、今できる最善のものを提供しようというプロとしてのプライドがあった。

そんな彼らは、弱者だろうか。悲劇のヒロインだろうか。不憫で同情しなければならないような人たちだろうか。

 

私は一つ一つの仕事に一切手を抜くことなく真摯に向き合う、アイドルとしてそのグループの一員としてプライドを持って作品やステージを提供する、信頼し尊敬しついていきたいと思えるアイドルが好きだ。アイドルの美しい生き様や覚悟を見ることが好きだ。

私個人の考えだけれど、私自身は好きなアイドルについて「この人たちを支えなきゃ、可哀想だから応援しなきゃ」と思ったらもうダメなんだと思っている。可哀想だなんて同情で支えなきゃいけないほど、私の好きなアイドルたちの生き様は弱弱しいものではない。「可哀想」という言葉は、私が信頼し尊敬しついていきたいと思っていた雲の上の存在であるアイドルを、自ら地上に引きずり下ろす言葉である。

 

今私は毎日のように事務所にKAT-TUN存続やコンサート開催の要望のハガキを送っているし、A.B.C-Zがもっと見たいもっとテレビに出てほしいという思いから番組に感想や要望を送ったりもする。けれどそれは彼らが「可哀想」だからじゃない。「彼らはこんなところで終わる人たちじゃない」と思っているからだ。

彼らは確かに不遇と言えるかもしれないが、そんな世間の声を吹き飛ばして余りあるくらいの実力があることを私は知っている。とんでもなく素晴らしいパフォーマンスができる、最高のコンサートが作れる、そして自分たちのグループやアイドルという仕事について強く美しい覚悟があることを知っている。だからそれをもっと世間に知ってほしい。「うちの人たちすごいでしょ!!????」と自慢したい。もっとでっかいステージに立ってほしい。彼らがその場所で笑っていて欲しい。

アイドルというのはそれを見るファンや視聴者ありきの存在であり、彼らだけでは成立しない商売でもある。彼らだけの希望では届かない部分、もうひと押し足りない部分についてファンが力を添えられるならと思って私は要望を送り続ける。

それは結局のところ、自己満足なのだ。「彼らの為に」じゃなくて「彼らを見たい私の為に」書いている。結局のところアイドルは偶像で、彼らが本当に何を望んでいるのか彼らが表に見せる姿だけでは分からないこともあるんだろう。だから私は私の為に声援を送る。可哀想な彼らの為に、じゃない。最高にかっこよく美しい彼らの姿を見たい私の為に、だ。自己満足だとしてもわたしは信じ、尊んでいるのだ。私が好きになった最高のアイドルたちのアイドルとして生きる覚悟とその生き様の美しさを。

 

「可哀想なアイドル」はいない。少なくとも私が見てきたアイドルたちは、「可哀想」だなんて人様に同情されるような生き様はしてこなかった。彼らはいつだってアイドルとしてプライドを持ち、どんな仕事であろうが全力で向き合ってきた。そこに「弱者」も「被害者」もいなかった。例えどんな茨道に放り込まれようと、その場所で出来る事を探し道をかき分け、茨で体が傷つこうとも歩みも思考も止めることはなかった。

 

私が見てきたアイドルは、どんな逆境であろうといつだって美しく気高かった。そこに、「可哀想」だなんて言葉は似つかわしくない、と私は感じているのだ。