愛という「決意」――NEWS加藤担が読んだエーリッヒ・フロム「愛するということ」

私はアイドル、特に自ユニであるA.B.C-ZとNEWSに関して語る時「愛」という言葉をつい多用してしまう。だって愛だとしか言いようがない、突き詰めれば残るものは愛でしかないとしか言いようがないくらいの出来事や言葉、行動をいつも受け取っているし私たちが返せるものも結局それしかないのだと思う。

でも、愛ってなんだ。愛という言葉を使いすぎてでも愛としか言いようがなくて大きすぎる彼らからの愛に立ち尽くして、最近の私はその答えを探して一人ぼんやり考えていた。答えは見つかっていなかったけれど。

 

先日発売された、レタスクラブ2019年6月号。

レタスクラブ ’19 6月号

レタスクラブ ’19 6月号

 

NEWSの連載「オトナのNEWS」今号は加藤さんの回だった。そのサブタイトルは「感情の奴隷にならないように」。感情や、悪意や、愛について話していた。

「僕は感情はコントロールできると思っている」という話の流れから、そこで加藤さんは先日読んだ本として、エーリッヒ・フロム「愛するということ」というタイトルを挙げた。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

自分が考えていたことが、この本に端的に書かれていたと加藤さんは言っていた。

 

この回で加藤さんは「自分に悪意が向けられた時、抱きしめられる人間ではありたいと思っている」と話していたのだけれど、これは小説TRIPPERに昨年末掲載されたエッセイ「できることならスティードで」のスリランカの回で話していたことと地続きであると思う。

その時の私の感想はこのブログにも書き残している。

tk46.hatenablog.com

 (ここでも私は「愛」という言葉を多用している)

そして多分その考え方というのは今年の加藤さんのソロ曲「世界」にも反映されていると思う。

tk46.hatenablog.com

ブログ記事を勢いのまま書いてしまうくらいどちらも私の心に深く刺さっていたので、今回のレタスクラブも刺さらないはずがなかった。

ちょうど私も、愛とか感情とかそういうものについて一人で悶々と考えていた。そして、加藤さんが「僕が考えていたことが端的なことばで書かれていた」とまで言う本、どのようなことが書かれているのか自分の目できちんと読んでみたくなった。

なので、買った。読んだ。ここまでが前置きです。

 

アイドルオタクとしても、一人の人間としても、色々考えさせられたり刺さったりしたのですが一人の人間としての話を深堀りすると超個人的なインターネットに書くような話でもなくなるので今回は「アイドルオタク(とりわけ、NEWS加藤シゲアキさんのオタク)の目線から読んだ『愛するということ』」という視点からの感想文です。要約でもなんでもありません。

なので超偏っているしただの個人の感想の域を出ません。刺さったところについてだけ話しています。ちゃんとしたこの本の論旨を知りたい方はここでは叶わないので、別のサイトをあたってください!ごめん!

また、一度読んだだけなので噛み砕けていない部分も多く、文脈や解釈などがおかしいところもあるかもしれません。私の言葉はあてにせず、自分の目で是非確かめて頂ければ…。

 

 

【第一章 愛は技術か】

愛は技術だろうか。技術だとしたら知力と努力が必要だ。それとも愛とは一つの快感で運が良ければ「落ちる」ようなものなのか。この本では前者を前提としている。

 

【第二章 愛の理論】

■1 愛、それは人間の実存に対する答え

人間の最も強い欲求とは孤立を克服し孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。人間はどの時代においても、いかに孤立を克服するか、いかに合一を獲得するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を図るかという問題に迫られる。その完全な答えは、人間同士の一体化、他者との融合、すなわちにある。

成熟した答えとしての愛は、能動的な活動であり自ら踏み込むもの、つまりもらうものではなく「与えるもの」。では、与えるとは何を与えるのか。

 

自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分の中に息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

この一文を読んで真っ先に思い浮かんだものが加藤シゲアキさんのラジオ「SORASHIGE BOOK」だったのでしんどい。

加藤さんが好きなものを好きなようにひたすら語りつくす30分間のラジオ。それはまさしく加藤さんの中に息づいている様々なもの、喜びや興味や色んなものをファンに向けて与えてくれる時間じゃないですか…………。そしてシゲ部だけじゃなくて、アイドルからファンに向けて与えてくれる様々な表現に思いを馳せた。

 

そして、あらゆる形の愛には、共通した要素がある。それは「配慮・責任・尊重・知」だという。(そしてまたここでも加藤さんの顔を思い浮かべるオタクなのであった……)

 

誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。いうまでもなく、自分が独立していなければ、人を尊重することはできない。

私は加藤シゲアキさんの短編集「傘をもたない蟻たちは」の中でも「にべもなく、よるべもなく」は特別というか、私の心にずっと留めておきたい忘れずにいたいと思った作品なのだが、そう思った理由のひとつが次に引用する台詞にある。

「理解なんかしなくていいんだよ。僕は純ちゃんとは違うんだ。でもそれでいいんだよ。違くたって僕は純ちゃんの友達だし、僕は純ちゃんが好きなんだよ。理解なんて、僕らの間にはなんの意味もないんだ」

傘をもたない蟻たちは (角川文庫)

傘をもたない蟻たちは (角川文庫)

 

これは自分の友人が同性愛者だと知った主人公が「自分とは違う、理解ができない」存在に思えた友人との関係に悩んだ時その友人がかけた言葉である。自分とあなたは違う人間だ。だけど違ったってあなたと友達だしあなたのことが好きなのだと言う。

ちょうどこれを読んだ時…というか今もなのだが、この考え方は狭量な私の人生におけるひとつの大切な考え方であり課題だと思った。だから私はこの作品が特別なのだが、おそらくまだこの「愛するということ」を読んでいなかった加藤さんがこの台詞を書いていたのがまた面白いところであり、加藤さんとこの本が考える「愛」は元々近いところにあったんだろうと思った。

 

さて、話を「愛するということ」に戻して。

自分自身に対する関心を超越し、相手の立場に立ってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。相手が怒っていると分かった時、より深くその人を知れば彼の怒りがもっと深いところにある何かの表れだと知ることができると述べてから、このようなことが記されている。

彼のことを、怒っている人としてではなく、不安にかられ、狼狽している人、つまり苦しんでいる人として見ることができるようになる。

「怒っている人」という一面的な形でみるのではなく、その奥にあるものを見る。これってすごく大切なことだなと思うし、こう思うことでこちらの捉え方が変わって、慈愛の心を持てるのかもしれない。どうすればその不安や苦しみを取り除けるか?という根本的解決を考えられるかもしれない。

加藤さんはここ数か月「自分に刃を向ける人を抱きしめられる人間でありたい」と何度か話していて、その真意を全て推し量ることはいちファンにはできないが、その「抱きしめる」ためにもこの考え方というのは大切なのかもしれない、こう考えればその刃さえも抱きしめようと思えるのかもしれない、刃に愛で返せるのかもしれない、なんてことを思った。

 

■3 愛の対象――c.異性愛

兄弟愛とは対等な者同士の愛であり、あらゆる他人に対しての責任・配慮・尊重・理解(知)であり、その人の人生をより深いものにしたいという願望。母性愛は子どもの生命と必要性に対する無条件の肯定、無力な者への愛。これらは対象が一人に限定されないという点で共通している。異性愛は異なる。排他的=一人の人間としか完全に結合できない(人類全体、この世に生きているものへの全ての愛を排除するということではない)。

 

誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。もし愛がたんなる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束にはなんの根拠もないことになる。感情は生まれ、また消えてゆく、もし自分の行為が決意と決断にもとづいていなかったら、私の愛は永遠だなどど、どうして言い切ることができよう。

ここについての感想は次の章にも絡んでくるのでそちらで話します。

 

【第四章 愛の修練】

愛とは技術である。ここでは愛の技術の修練という問題に立ち向かう。修練を積むために必要なことは「規律・集中・忍耐・技術の習得に最高の関心を抱くこと」だ。

愛を達成するための基本条件は「ナルシシズムの克服」である。ナルシシズム傾向の強い人は自分の内に存在するものだけを現実として経験する。ナルシシズムの対極にあるのが客観性である。これは人間や物をありのままに見て、その客観的なイメージと自分の中にある欲望と恐怖によってつくりあげたイメージを区別する能力である。しかし我々は多かれ少なかれ狂っているため世界を客観的にみることができない。ナルシシズムによって歪められた世界を見ている。

(これ、ジャニオタとしても、そして玉石混交の情報が氾濫した現代社会に生きる人間としても、今とても大切なことであると思った)

 

愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。また、どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖にかかわりなく存在している。その他人のありのままの姿とを、区別できるようにならなければならない。

加藤さんは、レギュラー出演している情報番組「ビビット」にてMCの真矢さんに冷静、俯瞰的と言われたことがある。

 ビビット金八先生として武田鉄矢さんがいらっしゃった際、加藤さんはいない曜日だったが金八先生の生徒として加藤さんがVTR出演した後のスタジオの会話である。ちなみにこの時卒業式のシーンで若かりし加藤さんが号泣している映像が流れていた)

なので「客観的」という言葉にも加藤さんを思い出す。いちファンの印象だけれど、加藤さんはフラットで客観的である上で自分の意見を持っているイメージがある。

ただそれは加藤さん自身の性質が元々とても客観的であったというより(それもあるとは思うが、それだけではなく)、客観的であろうという意識の上にあるのではないかというか、加藤さん自身も生きる上で「客観的」というキーワードは意識しているのではないかと勝手ながら思っている。

 

さて、ここからが特に個人的に刺さった部分なんですけど。

愛することができるかどうか。一つの資質が必要条件となるという。

それは「信じる」ということである。愛の技術の修練には、「信じる」ことの修練が必要なのである。

「信じる」とは何か。その問題について考える前に、理にかなった信念と根拠のない信念とを区別しなければならない。根拠のない信念とは、権威や多数の人びとがそう言っているからというだけの理由で何かを真理として受け入れること。理にかなった信念とは、大多数の意見とは無関係に自分自身の生産的な観察と思考に基づき他の一切から独立した確信に根ざしている。

他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。こう言ったからといって、人は意見を変えてはならないという意味ではない。ただ、根本的な動機は変わらないのである。たとえば、生命や人間の尊厳にたいする畏敬の念はその人の一部分であって、変化することはない。

愛することができるかどうか、必要なのは「信じる」ことだ。

これ、私が「愛とは何か」「担当とは何か」「我々がアイドルに対してできることは何か」って考える時、いつも辿りつく結論だったんですよね………………

ここで先程出た「愛するということは決意であり、決断であり、約束である」ということについても話したいんですけど。

私、加藤担になった時の気持ちを一番端的な言葉で表すと「覚悟」だったんです。ただの無責任ないちファンにどんな大した覚悟があるんだよって言われればそれまでなんですけど、「担当」と名乗らなくたって好きでいることはできる。あの時既に全身全霊で愛してやまない唯一の担当がいたから尚更。

じゃあなんでわざわざ「担当」と名乗ったのか。それは「私は全力であなたのファンをしたい」「あなたのファンとしてその名を担いたい」という決意。そしてその根底にあったのは、「私はあなたのことを信じている」という揺るぎない気持ち。だからここから引かねえぞという覚悟。

1年前の6月、先のことが見えなかった夜、私はまず手紙を書いてその後シゲ部にもメールを送った。私がその時一番強く伝えたのは「何があろうと私は加藤シゲアキさんを信じている」ということだった。「信じている」という言葉は単純に出来事に対する白黒の話では全くなく、「私は加藤シゲアキという人間そのもの(アイドルとしての生き様、性格、思考、性質など彼を構成する要素すべて)を信じているから事実がどうだろうと今現在も加藤さんが好きだという気持ちは全く揺らいでいない」という話なのである。

まあ結局ただの一方的なファンでしかないので私の覚悟なんて言葉はこの本で書かれていることよりもぺらっぺらの薄いもんだとは思うんですけど、そういう言葉を用いて考えていたことだったので、愛とは決意であり信じることであるとか書かれててひっくり返りましたよね私

 

そして、「永遠」という言葉も出てきたが、私は近年のジャニーズ界隈を見ていてよく「永遠とは何か」ということについて考えていた。物理的な永遠というのはないのかもしれないが、気持ちや概念は永遠であれるのではないか、永遠であることそのものよりも「永遠であろうとする」その瞬間の決意が何よりも尊いものなのではないか…と考えていたので、永遠を誓うことは生まれては消えていく感情に依拠しているものではなく、決意と決断、約束なのであると論じられていて、うっうわ~~~~~それだ~~~~~~~となった。永遠は決意に基づいた約束である。わかる。約束って、「勝手に叶う」ものじゃなくて、それを意思で選び取って「叶えるために持続的に努力をするもの」だと思うから。

でも、人間は変化するものなので、永遠の言葉は物理的には叶えられないかもしれない。でもこの本の言葉を借りるならば、その人の根本部分、愛を信じているから、その約束が叶えられなかったとして裏切られたとは思わない、と思ってきたんですよね、私は…。

 

私は、先に貼っているスティードの感想ブログに「愛の力を信じたい」というタイトルをつけていた。それは、なぜ加藤さんは自分に刃を向ける人にも抱きしめられる大人であろうと思い続けられるのか。悪意に諦めずにいられるのか。そう考えた時、加藤さんがアイドルとして山ほどの愛を浴びてきたことが少しでも関われているなら、もしそれが愛を信じていようと思えるひとつの力になれているなら嬉しい、と思ったことが理由だった。

実際のところどうだかは分からないが、とにかく私は加藤さんに「信じる」という言葉はよく似合うと思っていた。

加藤さんは信じる人だと思う。なんだかんだ言って性善説で人を信じているし、エンターテインメントの力を信じているし、ジャニーズを信じているしNEWSを信じている。そして自分が作った作品や自分が発した言葉がファンに届いてくれると信じている。信じているというか、願っているしきっとそうなるだろうと信じていてくれる、という方が正確な気がする。

傘蟻のあとがきでこの本が頼りない夜に灯すひとつの光になりますようにと言ってくれた加藤さん。世界で自分の覚悟が誰かの活力になることを願ってくれた加藤さん。ラジオで自分の作品についてファンが細かいところまで気づいてくれたら嬉しそうにしてくれる加藤さん。

信じてくれているんだと思う。ファンを。何かを作るというのは孤独な作業で、投げてみないとどんな反響が返ってくるかわからない。それでもそうやって願って託してくれる加藤さんを思うと愛おしくて仕方がないし、その「信じる」っていうのはやっぱりきっと「愛」と呼んでいいのだと思う。

 

自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。自分自身にたいする信念は、他人に対して約束ができるための必須条件である。そして、ニーチェが言ったように、約束できるということが人間の最大の特徴であるから、信念は人間が生きてゆくための前提条件の一つである。

この本では、他人を信じるためには自分を信じられなくてはならないと述べられている。

「信念」という言葉も加藤さんによく似合うなと思った。自分自身を信じ、他人を信じる。そうすることで愛することができる。

 

信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる能力である。

(中略)愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。

いや…これもめちゃくちゃ加藤さん…って思いましたね…

そういえば私はまだ「加藤担」になる前、加藤さんが好きだと最初に強く思ったNEVERLANDツアーの感想文「この人は本当にNEWSが大事で、NEWSに人生賭けてんだ、って思った。」って書いていた。今でもその印象は変わっていない。

 

そしてこの本は、人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなければならない。そして愛以外の面でも能動的で生産的でなくてはならない。しかし現代の人々の目的は大量生産・大量消費でそれが生きる目的となってしまっている。今や人間はロボットだ。人を愛することと社会的生活が一体化する社会を作らなければならない。愛の可能性を信じることは人間そのものへの洞察に基づいた理に叶った信念である、という論で纏められている。

 

前述の通り今回は「ジャニオタとして、加藤担として」の感想文なので、色々すっ飛ばしまくっている。一人の人間として愛とどう向き合うか、兄弟愛、人類や世界に対する愛、親子の間の愛、異性愛、自己愛、神への愛など。愛するとはどういうことであるか、それはどういった影響を与え合い、そのような要素と修練が必要であるか。沢山のことが書かれていて、ジャニオタとしてもそうですが一人の人間としても学ぶことがあったし向き合っていかねばな~…と思った本なので、是非私の偏った感想だけではなく自分の目で読んでみてください。

 

さて、この本を読んで「僕が考えていたことが端的なことばで書かれていた」と言う加藤さんを思うと、「なるほど………」という思いと同時に「マジか………」と頭を抱えた。

加藤さんの心にどのあたりが特に刺さったのかは分からないが、読んでいて「加藤さんのことだ……」と思う部分が沢山あった(きりがないので特にこれは!と思った部分だけここで語ったが、ここで引用したのは一部で、まだまだ色々あった)。

レタスクラブで加藤さんが触れていたのは「愛は技術であるから修練しなくてはならない」という箇所だったので、少なくともそこは加藤さんにとって印象的だったんだと思うけれど、愛を技術として修練するものとして受け止める加藤さんを考えるとうわ~~~~~~~…………加藤さん…………しんどい……………となる。そうやって、愛というものに理論の面から向き合おうとするアイドル加藤シゲアキさん……私の最愛のアイドルの一人………

 

加藤さんが「自分に悪意を向ける人を抱きしめられる人間でありたい」「愛とは何か」「愛は修練しなくてはならない」「感情の奴隷になるな」「感情はコントロールできる」と考えること、そのきっかけや思考の流れがどのようなものであったか私には分からないし、いちファンである私にそんなことを知る権利などないので知らなくていい。言わなくていい。

だけど、数えきれないほどの目線に晒され様々な感情をぶつけられるアイドルという存在である加藤さんが、「好きじゃなきゃやってられないよ!(笑)」と言ったアイドルという仕事を愛する加藤さんが、そうやって自分に向けられる有象無象の感情、自分自身の感情、愛というものについてこうした強い意志を持って向き合って自己を律し他者を受容しようとする、「そうあろうとする」加藤さんの生き様を私はどうしようもなく好きだと思う。信じ、愛したいという気持ちを強く持ってしまう。

喜びや愛だけでなく苦痛も受け入れることを覚悟してNEWSに全てを賭ける勇気。その信念は、この本に当てはめれば愛され、愛するため、愛の技術を身につけるために重要な要素のはずだ。

 

ここまで長々と愛について話してきたが、前述の通りレタスクラブで加藤さんは愛だけでなく感情全般についても話していた。

この本を紹介した後、加藤さんは「いろいろな感情はコントロールできる、そう思うことでラクになることもあると思う」と言った。

愛の修練、感情のコントロール、加藤さんが口にしたそういったものの先には「そう思うことで楽になることもある」という気持ちがある。論理の先には、その人が幸せに生きられるためのやわらかい優しさがある。加藤さんは本当に優しい人で、やっぱりこのまなざしは紛れもなく、愛の技術を身につけ修練し続ける、加藤さんの愛なのだと思う。