愛の力を信じたい――小説TRIPPER「できることならスティードで/Trip 9 スリランカ」

例えば自分の好きなものに誰かが刃を向けているのを見た時。私とは全然違う世界の見え方をしているんだろうなという人が、私には想像の及ばなかった角度から過激な言葉を投げかけているのを見た時。

私は何万回、拳を握りしめたか。怒りで頭が沸騰して、心の中で鉄パイプぶん回してきたか。喉まで出かかった口汚い言葉を飲み込んだか。いや、短気な私は、時に飲み込みきれなかったこともあっただろう。今は、飲み込みきれない時は完全に自分しか見ない場所(日記アプリとかメモ帳とか)かお友達しか見ていない鍵付きのアカウントに投げて、怒りの矛先がツイッターだったらその対象のアカウントをブロックして私の世界から見えないようにして終わらせるようにしている。

感情に任せて言い返してやりたい、と何度思っただろう。けれどそういうことを不特定多数が見られる場所でやったら、関係のない人にまで何かが起きていることが知られてどんどん広がってしまうかもしれないし、私の意図しない方向に更に転がってしまうかもしれない。そして多分、お互いの感情は残念ながらどうしたって相容れないこともある、とある時悟るように思った。お互い違う感性や信条の持ち主、違う人生を生きてきた人間なんだから。理解なんてし合えない相手に、憎しみに憎しみで返したらどこまでも終わらない負の連鎖だ。だから私は、握った拳で誰かを殴るのではなく、それを天高く掲げてただただ大好きだと叫ぶことに決めた。

誰かが何かを嫌いだと叫ぶなら、それをかき消すくらいの大声で愛を叫び続ければいいんだ。いくらかの年数オタクをやってきて、ジャニオタをやってきて、今の私が見つけた落としどころはそれだった。

 

NEWS・加藤シゲアキさんが小説TRIPPERで連載しているエッセイ「できることならスティードで」、12月発売の最新号は加藤さんがプライベートで行ったスリランカ旅行の話だった。スリランカの旅の思い出、最大の目的であったバワ建築をはじめ旅で触れたスリランカ文化などについて語る中で、加藤さんはある言葉を引用する。

「憎しみは憎しみによって止むことはなく、愛によって止む」

これは仏陀の言葉であり、スリランカ第二代大統領ジャヤワルダナがサンフランシスコ講和会議で行った演説でも引用された言葉だという。この演説が日本の分割統治を救ったとも言われている、と。

 

そして加藤さんは、自分に悪意の矛先が向けられたとき思う言葉がある、と続ける。

「自分に刃を向ける人を抱きしめられる大人であれ」――誰かに教えてもらったものではないそうだ。加藤さん自身が編み出した言葉。彼はこれを一種の処世術のようなものだと言う。

この一文を読んで、思わず数秒止めてしまった息をその後ゆっくりと吐き出しながら、そうか、そうかぁ…と噛みしめた。

 

まずこのことについて語る上で、私が前提とするのは「私の好きなものに刃を向ける人」で、加藤さんが前提としたのは「自分に刃を向ける人」である。私は結局、ただのファンと言う名の他人であるから、刃を向ける人=向けられた対象からすれば他者、と同じ土俵にいる。刃を向けられる本人とは、絶対的な立場の違いがある、ということを整理した上で。

 

私は、諦めた。刃を向ける人と理解し合うことを。そういうもんだと思って、自分とは違う世界を見ている人なのだと思って、私の世界から極力不可視化することで私の心の平穏を保つという術――これもある種の処世術といえば処世術――を身につけた。「憎しみは愛によって止む」という結論自体は首肯しかないし、大まかにいえば近いところに私が出した結論もあると言えるかもしれないけれど、私はそういう人たちと相対すること自体を止めて見なかったことにするという結論を出した。

 

しかし加藤さんは、「抱きしめられる大人であれ」と言う。

加藤さん自身、それを実践するのは容易ではないと自覚していた。時に感情的になりそうにもなる、なってもいいのではないか、とまでエッセイに記す加藤さんは本当に人間くさくてバカみたいに正直だ。そして私はそういう加藤さんのことがどうしたって好きなんだけれど。

 

こんな仕事をしていたら、きっと美しいだけじゃない世界もたくさん見てきただろう。悪意にだって色んな目線にだって履いて捨てるほど晒されてきただろう。私がいちファンとして想像するよりもきっと色んなものが渦巻く世界に20年近く身を置いてステージに立ち続けて。

なのにどうして諦めずにいられるのだろうと思った。どうして向けられた刃を前にしても、そう思おうとできるのだろうと思った。

そう考えて、でももしかしたらこんな仕事をしているからこそ信じたいと、信じようと思えるのかもしれない、とも思った。愛というやつの力を。

これは私の勝手な妄想だと思って聞いてほしいんですけど(というか、それを言うならそもそもこの記事が全部そうなんですけど)。愛と悪意を同時に、豪雨のように浴び続ける仕事。そんな中で生き続けている加藤シゲアキさんが、時に感情に負けそうになりながらもまだ愛の力を信じようとしてくれる。もしその意思の理由に、これまで彼が浴びてきた愛が少しでも関われているのなら、アイドルを愛する者として、アイドル加藤シゲアキを愛する者としてこれほど嬉しく幸福なことはないではないか。

 

加藤さんは生まれながらに強さを持っていたわけではない、と思う。なんて言ってしまうには私はまだ加藤さんを知って日が浅すぎるとは思うからあくまでもド新規の私フィルターで見た話でしかないのだが、多分加藤さんに限らず、ほとんどの人間はそうだと思うのだ。

だけど彼は強く在ろうとする。そう感じるのは今回のTRIPPERだけではない、過去のエッセイもそうだし色んな媒体で触れてきた加藤シゲアキの言葉や生き様、そして作品たちから感じてきたことでもある。そしてその強さは優しさだ。

 

加藤さんは諦めない。なにも諦めずに、全部抱えて進んでやらぁ、みたいな感じで、作家に俳優にそして勿論アイドルにこの冬も走り続けている。

そういう人がいること。そういうアイドルがいることこそが、ひとつの希望になり得るものだと私は思うのだ。この世界の希望だ、なんて言いたいけれどそれは主語を広げすぎたかもしれない(私としてはそう言いたいくらいではあるのだが)。だから、言い方を変えて「こんな世界に生きる誰かにとっての確かな希望だ」。誰かって誰だよ、と言われたら、少なくともここに一人はいる。

 

私はやっぱりちょっとしたことで内心怒りまくってしまうし、すぐに諦めてしまうし、加藤さんの言葉に深く感銘は受けたけれど実践できる気はまだまだしない。私と加藤さんだって違う人間だ、同じようにはなれない。けれど、違うけれど、その言葉を心に刻むことならできる。短気な私がまた拳を握りかけた時、強く在ろうとする加藤シゲアキの背中を何度でも思い返したい。私には眩しくも見えるけれど、その眩しさは希望の証でもある。全部諦めそうになった時、愛の力を信じたいと、そう思わせてくれる希望。

そしてもし加藤さんがそう在ろうとする源に彼が浴びてきた愛が仮にあるのだとしたら。NEWSが加藤さんが好きだと示せたらと、愛を1ミリでも届けられたらと、私は加藤さんのうちわを握りしめてペンライトを振って。そんな無数の光のひとつになりに年末の京セラドームに足を踏み入れたいと思うのだ。